(2016.2.27. 訂正・加筆)

今回は軍部独走のきっかけのひとつである、陸軍内の派閥争いとその経過を少し詳しく見ていきたい思います。

 しかしながら、今回はちょっと難しかったです、、。汗 まとまってない所もあるかもしれません。間違ってるところもあるかと思いますが、素人の記事ということで先にご了承ください。すいませんです。m(_ _)m



 日本陸軍の基礎となったのは、長州の奇兵隊だったということは、前回触れました。
 明治政府の重鎮の山縣有朋の意向もあって、明治憲法下において軍部は政府内閣から独立した組織となり、陸軍は長州、海軍は薩摩という薩長閥の強い影響を受ける組織となります。
(本来は陸軍にも薩摩派はいましたが、明治初期に西郷隆盛の下野とともに多くの陸軍薩摩派も下野して西南戦争を起こしました。結果陸軍の薩摩派が少なくなり、自然と陸軍は長州中心となっていきました。海軍についてはもともと長州にしっかりした海軍がなく、薩摩にはあったので海軍は薩摩、という形となったと言われます。また陸軍は長州派が主流となってしまったため、薩長のバランスをとるために海軍は薩摩となったとも言われます)
 ちなみに明治維新前後から薩長はあまり仲が良くなく、日本の陸軍と海軍の対立構図は初期のころからあったものだといえるでしょう。しかし、明治新政府を絶対につぶしてはならない、という共通の強い認識があり、表立った深刻な対立はなかったようです。でも、常に軍政や軍略で方針の違いがあり、お互いの意志疎通も十分ではなく、陸海軍の連携という点では後々に支障をきたしたといえます。



 さて、陸軍はその軍制度を整えた時から、長州閥の色濃い組織でした。加えて山縣有朋という長州閥の重鎮が長く存在し、山縣の権威は晩年でも強い影響力を持っていたため、なおのこと陸軍の長州色は強かったのです。
(長州閥というより実のところは「山縣派閥」と言った方が的を射ているのかもしれません。山縣はとても面倒見が良い上に地元愛も強く、長州出身というだけでものすごい贔屓とサポートをするような人物でした。長州出身で山縣の世話になった人はいないというくらい強力な援助をし、そのため恩を受けた長州出身者の多くは当然山縣派に属していくわけで、そうやっていわゆる陸軍の長州閥は大きくなっていきました)
 逆に言うと、長州出身でなければなかなか優遇されず、局長以上の重要なポストは約半分が長州出身者だったと言われています。

日露戦争後、陸軍はそういう長州閥体質から抜け出さなくてはならない、という考えの比較的若い幹部・将校たちが多くなっていきました。
そういう考えの将校たちが集まって、勉強会のような会合を作ります。
それが陸軍内の改革系派閥となっていき、後の皇道派や統制派となっていきました。
本来はクーデターや政治改革を狙った過激な派閥ではなく、あくまで長州閥体質からの脱却と組織改革を狙ったものでした。

 時が流れて山県などの重鎮がいなくなってくると、陸軍の長州閥の影響力は少しずつですが薄くなっていきました。
(結局のところ陸軍長州閥が急速に縮小した理由は、山縣の跡をまとめる強力な中心人物がいなかったからだと思われます。山縣は長命でその間に山縣の跡を継ぐべきの優秀な人材が先に亡くなってしまい(桂や児玉、乃木など)、いざ山縣がいなくなったところそれを継ぐべき適当なリーダーがいませんでした)
 また、改革系派閥の将校が陸軍士官学校の選抜試験官に選ばれると、長州出身者には難題を出したりして妨害をはじめ、長州出身者ばかりに偏りがちだった士官候補生から長州出身者を減らしていくことに成功していきます。(これも山縣がいなくなったからできたことでしょう)
 しかしながら、日本国内の社会・経済は急に不安定となって、混沌とした世の中になっていき、重大な問題となってきていました。陸軍の長州閥体質からの脱却を狙っていた改革系派閥は、その議論の矛先が政治色の強いものになっていき、次第に政治論争を語り合う場となっていました。

 一方、世界恐慌の前後から張作霖爆殺事件を経て、日本は満州地方をめぐって中国国民政府と鋭く対立するようになり、中国の満州における日ソ排除行動や欧米資本による鉄道建設推進などで、軍事間や政府間、経済・民間レベルでも対立や衝突が起きるようになっていました。(この辺りから日中の根深い摩擦が始まったと考えられます) 満州は経済が低迷する日本にとって重要な経済の生命線でもあり、ソ連に対する大事な緩衝地域でもありました。満州問題は日中間の重大な懸念となって相互の国民感情も強く刺激していくことになります。(現在も尖閣をめぐる領土問題で、お互いの国民感情が悪くなっています。この辺も当時と現在が似ているように感じる所です)
 陸軍内の改革派は国内の反中感情の高まりも受けて、長州閥からの脱却に加えて懸案化する満州問題解決も目指すようになり、中国に対し武力行使も辞さない強い態度でのぞむことを決めました。彼ら改革派は中央司令部の課長級ポストの大半を占めるようになっていき、少しずつ陸軍内の影響力を強めていました。そして満州現地駐屯の関東軍参謀に、同じ改革派の板垣征四郎や石原完爾が着任し、満州問題の武力解決計画を進める環境が整いました。
 彼らは秘密裏にことを進め、そして実行するに到ります。


 満州問題の武力解決計画は、事前の下準備がしっかりしていたこともあり、大成功に終わりました。しかしこの成功が、さらなる陸軍内の派閥争いのきっかけとなります。
 満州事変の成功により勢いを得た改革派は、さらに停滞する政治の改革までを画策するようになります。改革派は次第に過激派と穏健派の二つの論調に集約されていきました。
 一つはクーデターも辞さない過激な政治改革で天皇親政による強力な専制国家を目指す「皇道派」。
 もう一つが天皇機関説を認めつつ現行法に則った形で軍部が政治の主導権を握り軍人や軍出身者中心の内閣を樹立して政治改革を進めようとする「統制派」です。
 一般に、皇道派は強硬過激派・武闘派・急進改革型とされて、統制派は穏健派・理論派・官僚型とされます。両派とも八紘一宇思想(天皇のご威光をもって世界をまとめあげること)をもとに大胆な国家改造を目指す、軟弱な政治家や官僚には皇国の危機に十分に対応できない、軍人が国家の柱となって強力に改革を進めなければ社会不安は収まらない、という共通認識がありました。
 初め両派の対立は深刻なものではありませんでしたが、張作霖爆殺事件や満州事変を経たことで、正しければ勝手な行動をしても良い、動機が正しいなら批判を受けない、といった軍隊として間違った考えが広まっていくにしたがい、血気にはやる若い将校らが目立った衝突を繰り返すようになってきました。ついには、陸軍省の中で幹部将校の殺傷事件が起きるという、異常な事態となっていったのです。
他方、海軍将校らが首謀した首相暗殺テロ事件(五一五事件)などの影響も受けて、若い陸軍将校らの活動はさらに活発化していきました。
(五一五事件では軍法裁判が一般に公開され、その証言の中で首謀者たち若者は皇国の危機を訴え、日本を変えるためにやむなく事件を起こしたと涙ながらに訴え、自分たちは極刑でも構わないからと自らの主張を論じました。その堂々たる態度や清廉な姿勢が訴えの内容とともに新聞で拡散すると、全国で刑の軽減運動が起き、嘆願の署名活動が起き大きなうねりとなって裁判に圧力がかかりました。彼らの凶弾により重要閣僚が死亡するという凶悪な事件にもかかわらず、国民の熱意と圧力に屈する形で結果的に刑は軽減されてしまいます。ここでも、動機が正しければ何をやっても良い、といった風潮が助長されてしまうのです)
 そして、ついに本格的なクーデターが決行されました。二二六事件です。

 1936年2月26日、皇道派の青年将校らは未明に部隊を独断で動かして、政府内閣閣僚を襲撃。多くの閣僚が殺害されました。
 青年将校らは、皇道派の陸軍大将を首相に据えた、軍部主導内閣樹立を要求します。初めは陸軍大臣などに一定の理解を得て義軍扱いを受けましたが、昭和天皇の強いお怒りを受けて一転して賊軍扱いとなります。天皇親政を目指す皇道派のクーデターが、逆に天皇から強いお怒りを受けるという結果を招いてその意義を失い、決起部隊は解散、首謀者の青年将校たちは一同に自決し事件は終息しました。
 統制派は、皇道派が陛下のお怒りを買ったというこの機を逃さずすぐに行動に移り、クーデターに加担した将校たちを未公開の軍法裁判で処罰するとともに、皇道派を処分・追放して中央から一掃、陸軍の中央組織を一気に掌握することに成功します。加えて、諸部隊が独断で行動しないように規律・綱紀を引き締め、厳罰を以て処することを陸軍内に示しました。
 こうして陸軍は統制派によりまとめあげられ、とりあえず一枚岩になったように見えました。

 また統制派は、政府・国会に対してクーデターや暗殺をちらつかせて暗に脅し、軍部の意向を次第に認めさせていきました。特に軍務大臣現役武官制を復活させ、内閣閣僚を選ぶ際に軍の意向に沿わない人事などがあると「大臣適任者がいない」と軍務大臣を出さずに組閣を邪魔することにより、軍部の意向に沿う組閣をさせるように仕向け、次第に政治の実権を握っていきました。
 こうして統制派は目的通りに軍人が政治を握り、軍部主導で改革を進める準備を整え、日本は軍国主義へと傾いていったのです。そして国民も満州事変を経て軍への信頼も高まっていたので、この軍部主導の政治体制を歓迎し、受け入れられていきました。


 ただ、国民の関心は軍部の意向とは少し違っていました。
 軍部の目的は八紘一宇思想での政治改革、すなわち天皇を中心とした強力な国家体制の確立です。一方、国民の最大の関心事は生活に直結する「経済・景気対策」でした。国民が軍部主導の政治体制を受け入れたのは、満州事変により景気が上向いたという実績を買ってのことです。
 しかしながら長年不況が続いた日本の財政は厳しく、国体維持を第一の目的とするならば、どちらかというと思い切った緊縮財政に舵を切り、極力戦争を起こさないようにしながら厳しい世界情勢をなんとか乗り切るのが、資源の無い極東小国の日本のとるべき道だったのだろう、と私は考えます。特に、長期戦・消耗戦・総力戦となってしまう現代戦争は、日本の国体を守るためには絶対に避けなくてはならないことでした。
 そのことは、皇道派も統制派もふくめ、軍部はよく理解していたはずでした。
 皇道派の先駆者の一人は、欧州大戦(第一次大戦)を検証・研究してひとつの結論を出しています。
「欧州大戦は戦争というものをがらりと変えた。戦車、飛行機などの新科学兵器が主役となり、国力(工業力)の差が勝敗の行方を決める。また現代戦争は長期戦・消耗戦・総力戦となる。日本は未だ資源の少ない極東の小国に過ぎず、長期戦・消耗戦をしたら勝つことは出来ないだろう。日本は現代戦争を絶対に避けねばならない。もしどうしても戦争をするならば、短期決戦、電撃戦しか勝つ手はないだろう。」
 以上のような結論でした。また、満州事変を主導した統制派の石原完爾も、次のような考えを持っていたといいます。
「日本がこの先の現代戦争に勝っていくためには、日本経済をさらに力強く発展させ、重工業を興し、国力を今の数倍つけなくてはならない。満州事変は日本の経済を支えるために起こしたものだ。今の日本は未だ極東の農業小国に過ぎない。これを工業大国へと発展させるためには、満州を開発しつつ、ソ連の五か年計画のように重工業へ重点的に財源を投入させる政策をとる。そして、それが成るには最低30~40年はかかるであろう。その間は国際情勢をうまく乗り切り、長期戦・消耗戦となる現代戦争を絶対にしてはならない。30年の後、工業大国となった日本は現代戦争に耐え得る国力を身につける。そうすれば、いつか来るであろう東洋対西洋の一大決戦に、日本は必ず勝つことが出来る。」
というような持論を持っていました。
 どちらも共通することは、「今の日本は絶対に戦争をしてはならない」ということです。皇道派にしろ統制派にしろ戦争は避けるべきと認識しながらも、軍は戦争へと舵を切っていくこととなります。
 それは、満州事変以降の国際的孤立から独ヒトラーへの接近により英米との溝が深刻になったこと、経済対策が対外強硬策しか見いだせなかったこと、戦争と外交の見立て(検証)が甘かったことと軍事と外交の連携の悪さ、国家総動員体制を整えるための国粋主義や国揚政策の推進が国民のナショナリズムを異常に高ぶらせてしまったことなど、様々な原因が考えられます。

 いずれにせよ、軍部寄りの新政権に対し多くの国民が求めたのは、長く続いた不況への対策、経済対策でした。成ったばかりの新政権は、財政難のため緊縮路線にしたとたんに経済が失速するのでしたくてもできず、また満州事変をきっかけに国際社会から孤立していた上にブロック経済下ではこれといった有効策もなく、結局は対外強硬路線へと向かうこととなります。
 日本は満州国をめぐって国際連盟を脱退後、ドイツに接近し日独防協協定を結び、またワシントン軍縮条約を破棄し軍備増強をし始めていました。また中国においては満州事変から常に緊張と対立が続き、いつ軍事衝突が起きてもおかしくない状況でした。
 そして1938年、ついに中国北京郊外の廬構橋にて日中軍が衝突。両国の緊張は最大に達します。

 現地では和平交渉が順調に進んでいたのにも関わらず、時の近衛文麿内閣は不拡大と言いながら陸軍に押されて増派をするという中途半端な兵員増派を決定し、現地の交渉を混乱させます。
 同時に陸軍内部では、中国一撃論と一撃不要論に別れて論争が起きています。
 中国はいまだ政情不安定であり短期電撃戦にて首都南京さえ落とせば、講和に持ち込めるはず。長期戦にはならないはずだから今中国を叩くべきだ、というのが一撃論。
 今の日本ではまだ戦争は危険であり、長期戦にならないという保証はなく、万一長期戦になったら確実に深手を負う。今は不拡大路線をとり戦争を避けながら、日本の経済と工業力を高めていくことに専念すべきだ、というのが一撃不要論です。
 前者は主に東条英機らが訴え、後者は石原完爾らが唱えて対立しました。
 特に、満州事変の成功例を見た血気にはやる若手将校らは、強く一撃論を支持しました。最終的には、景気刺激のために戦争特需を狙った一部内閣の意向、中国内情をみて長期戦にはならないだろうという安易な予測、中国を今叩いて譲歩を引き出して満州を安定させるべきという思いが先行し、一撃論が大勢を占めました。
 激しく反対した石原らは、現役の身分を追われて予備役へと回され、失脚しました。

 結局和平交渉は頓挫して戦闘は広がり、近衛内閣の中途半端な軍部優先の姿勢が引くに引けない状況を作って、支那事変(日中戦争)が始まってしまいました。この戦争は軍や内閣の予想を大きく外れ、泥沼の長期戦となってしまいます。

 日中戦争は7年に渡る長期戦となり、結果的に日本敗戦のきっかけとなりました。しかし冷静に考えてみると、開戦前年には張作良を介して中国国民党と共産党の第二次国共合作の下地は出来上がっていたし、満州のように前々からある程度進出していて事前に詳しく内情を知っていた訳でもなく、土地勘も情勢も詳しく知らない広大な中国において短期戦で屈伏させるには、無理があったと言わざるを得ません。
 よく考えて正しく検証ができていれば、日中戦争が長期戦になる可能性があったことは十分に予測できたはず。目先の利点に左右されてしまった感が強いし、中国国内の動きを過小評価していたと言わざるを得ない。そして日本国内に広がっていた対中嫌悪感と戦争特需への期待感の空気に、流されてしまったのでしょう。
 この開戦が、大日本帝国の重大なターニングポイントだったと言えます。


 それでも、日中開戦にあわせて政府は大型軍事予算を組み、戦争特需が生まれて経済は大きく向上しました。
 大規模なばらまきにより、開戦から二年ほどは非常に良く経済が回り、好景気となりました。そのため国民は大いに喜び、軍部と戦争への支持はますます強くなっていきました。

 陸軍は破竹の勢いで上海に上陸して進軍し、そのまま国民政府首都、南京を占領しました。当初の予定ではここで講和に持ち込める予定でしたが、中国国民政府は内陸の重慶に政府を臨時に移し徹底抗戦を宣言。
 さらに中国は、日本が抜けた国際連盟の中で自国の主張を一方的に発することができたため、南京戦での日本軍の残虐行為や日本の占領政策の過酷さを国際社会へ強く訴え、欧米各国は反日的態度へさらに傾いてしまいました。
(このいわゆる南京虐殺事件ですが、私は実際にあっただろうと考えています。さすがに中国が主張する百万人という数字は信憑性に欠けますが、当時の日中間の険悪感情の中では、武器を持たない非戦闘員でも反抗的な市民に対し残虐行為に及んだ可能性はかなり高い。見せしめという意味も込めて、数千~数万人規模での虐殺行為はあったとみるほうが妥当だと考えます。よく日本側がいう「百万人なんて数字は嘘だ。だから虐殺もなかった」とするのは強引すぎでしょう。虐殺があっただろうことは多くの文献から十分に推測できます。たとえ数千人程度であったとしても、一般市民に手を出したら虐殺は虐殺でしかないのです)
 もともと満州国の承認をめぐり国際的に孤立していた日本は、さらに南京事件の影響もあって海外向けの日本国債に買い手がつかないことも重なり、日本の財政は急速に悪化していきました。
 戦争を乗り切るため、政府は国家総動員法を制定して挙国一致体制を作り、経済統制をしいて経済と物流の制限を始めます。同時に大政翼賛会などを通じた活動を強く押し進め、精神的な部分で挙国一致、国粋主義が国民へ一気に浸透していきました。以前にも増して、強力な挙国一致体制が抵抗もなくすんなりと受け入れられていきました。
(これは日本人の性格によるものもあるでしょう。日本人は基本個人よりも社会コミュニティや組織を一番に考える民族で、ムラ意識が非常に強い民族です。お上の方から国家・社会を強調した国家主義・国粋主義を押しつけられても、誰もおかしいとも思わず普通に浸透していったのでしょう。
また、明治から続く徴兵制の弊害もあったのではないかと思っています。一家にいる兄弟のうち、長男を除く次男・三男などは、健康な体であれば3年の徴兵義務がありました。軍隊に入れば、天皇直属の軍人として身分が保証されるとともに一般民より格上の立場であり、また軍人教育の中で天皇の神聖性や天皇への忠誠を叩きこまれたはずです。退役してもその思想は残るはずで、そういった男性が家族を持ち子を持てば、その家庭は大抵軍に親しみを持ち、天皇を神としてあがめるのが普通でしょう。そういった中で国策として国家主義・国粋主義が叫ばれるなら、多くの家庭がそれにすんなり従ったはずだ、と推測します)
 これにより、日本国民のナショナリズムは著しく高まっていきました。


 一方、泥沼化しつつある日中戦争をなんとかするため、政府は外交を通じて解決しようとアメリカなどに仲介を求めましたが、もともと中国進出をめぐり日本と対立していたためにうまく行くはずはありません。それと日本軍は戦線を広げる一方で戦闘行為を縮小せず、そんな状況では米も日本を信用するはずがなく、当然ながら外交は失敗続きでした。
 本来、対外政略の要である外交と軍事は親密に連携しながら動くものですが、当時の日本は軍が政府から独立していたのでこの連携がとれる訳がなく、この時期の日本外交がほとんどうまくいかなかった理由の一つがここにあります。

 軍部の方も、国体維持を一番に考えるのなら長期戦になりそうになった段階で戦線を縮小するなり手を引くなりの方法はありましたが、やはり天皇直属軍としての威信やプライドがそれを許さなかったし、軍事予算で大金を使っておいて勝ち負けつけずに手を引くことは出来なかったのでしょう。そして引くに引けないという場の空気に流されて、スパッと決断できないという日本人の悪い気質もあったのでしょう。

 結局、日中戦争は膠着状態が続いたまま、ずるずると無駄に長引いていきました。
 日中戦争が長引くにつれ、日本経済は下降の兆しを見せ始めました。

 同時期に欧州ではドイツが英仏と開戦して(第二次世界大戦)、電撃作戦にて快進撃を続けて一気にフランスの首都パリを占領しました。
 この快進撃を見た日本国民は、欧米列強はやはり恐るるに足らず、と考えるようになりました。
そしてさらなる景気浮揚のために、外交面や中国進出、資源(石油や鉄鉱石)の輸入をめぐって対立を続けていたアメリカとも戦争を始めるべきだ、と考える国民が増えていき、メディアもそれを催促するような論調を続けていました。

 日本政府・軍としては日中戦争に区切りがつかないうちはアメリカとの戦争は避けたかったし、対米戦シミュレーションで勝つ見込みがほぼ無いのを分かっていたために、できれば外交で日米対立を解消したいと思い、あらゆる外交努力を続けていました。が、やはりその間も日本軍の仏領インドシナへ進出や日独伊三国同盟の成立を見て、アメリカは日本を独ナチス、ヒトラーと同じとみなして、外交上の譲歩は全くしませんでした。アメリカのこの態度を新聞メディアで知った日本国民の多くがその上面だけの情報を鵜呑みにし、アメリカは傲慢である、即刻日米開戦だ、という気運が高まっていってしまいした。この気運・空気は、戦争をして景気を良くしろという国民の願いと重なって大きなうねりとなって高まり、戦争を避けたい政府・軍部に強い圧力をかけました。
 最終的に日米外交は行き詰まり、米国側から一切の資源の輸出禁止を受けます。米国に資源、特に石油の大部分を頼っていた日本は、米の禁輸措置で日本経済の崩壊を宣告されたのと同じでした。
 結果、政府・軍部は負けると分かっているはずの日米戦争へと、舵を切らざるを得なくなるのです。



 以上、開戦に到る軍部の動きをざっと見てきました。
 陸軍内部で起きた長州閥体質からの脱却の動きが、いつしか政治色の強いものとなり、陸軍内の派閥争いから一気に国家の権力を軍部が握ることとなりました。本当はここから大胆な国家改造を目指すべきところが、足元の経済問題にとらわれるがゆえにいつしか道を踏み外していき、日中開戦を経て日米外交が頓挫し資源・石油が禁輸されて経済の危機に。加えて予想以上の国内の開戦気運に押されて、最終的に負けると分かっている日米戦争へと突き進んでいく、、。
 日米開戦には国民の思いや願い、すなわち国内の気運・空気が強い影響を与えていたのが分かるかと思います。
 軍部の独走は確かに戦争へのきっかけではありましたが、それだけが戦争の原因ではなく、形はどうあれ結果的に国民の多くが戦争を後押ししていたということは、決して見逃してはいけません。日本人の悪い癖で、「見たくないものは見ない」「臭い物には蓋」といわんばかりに、戦後戦争責任は軍部の独走だけに押しつけられてきました。しかし実際はそれだけではなく、重大な原因の一つに国内・国民の抱く空気・気運がそれを強く後押ししたんだということを、よく知って理解しておく必要があると思います。

 今回はかなりの長文でした。雑文失礼しました。。
m(_ _)m


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松宮 湊人
40代、男、既婚、会社員。
カミさんが言うには、変わった性格だそうです。
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